「認知症の第一人者が認知症になった」2
認知症患者と、それを支える人
認知症医療の権威である長谷川和夫氏が認知症を発症してからの闘病生活に密着するドキュメンタリー。
長谷川氏の開発した「長谷川式スケール」という認知症簡易診断プログラムは、日本にとどまらず世界の認知症医療の礎となっています。
患者本人の感情にスポットライトを当てること。
それと同時に行われるべきは、患者を支える周りの人間の思い、患者と介護者との関係性に焦点を当てることでしょう。
現実的に考えて、認知症の現場への関わり方としては、実際に患者になることより患者をサポートする立場になる(親族、介護職)ケースのほうが多いからです。
もちろん現場での関係性は十人十色です。患者本人も一人一人異なるし、家族が扶養するのか・介護施設に入るのか様々なケースがある中で、認知症患者を支える人間が、理不尽な現実に対して持つ「扱いづらい感情」というのは共通して存在すると思います。
認知症は残酷な現実です。患者本人が、患者に関わる人が、疲れた生気のない表情になっていくのをみるととても痛々しく感じます。
長谷川さんとその家族との関係から見えてくることが、これから何らかの形で認知症に関わっていくすべての人に対しての一助になればよいなと思います。
長谷川さんは不安な日々を過ごす中、こんなことを語っています。
「自分がまごまごしたり繰り返し同じことを聞いたりして、まわりが自分をうっとうしく感じないか?自信がなくなり、口を閉ざさざるをえない。殻にこもっていく。」
患者は不安な日々を過ごしています。それを支える人たちの表情が暗くなったら、患者はどう感じるでしょうか。
「朝起きて、
(今日は何をするんだろうな?)
どうも自分の在り方というのがはっきりしない。
で、妻がそばにいて言葉を交わしてくれる。
『おはよう。』『調子はどう?』
『よく眠れた。』
お互いそういう話を交わす。そうすると、
(ああ、大丈夫なんだな)
だんだん不安は薄れていって、私の中に確かさが戻ってくる。」
介護者はきっと、理不尽な現実に対してぶつけようのない憤りを感じることでしょう。
しかしなによりも理不尽な現実を嘆いているのは、きっと患者本人です。
認知症患者とそれを支える人。
あまりにも困難な現実ですが、それを支えるだけの力をもつのは「人と人との関係」でしかないとおもいます。
「認知症の第一人者が認知症になった」1
認知症患者のリアルな感覚
認知症医療の権威である長谷川和夫氏が認知症を発症してからの闘病生活に密着するドキュメンタリー。
長谷川氏の開発した「長谷川式スケール」という認知症簡易診断プログラムは、日本にとどまらず世界の認知症医療の礎となっています。
誰よりも認知症の実態に精通している彼ゆえに、普通の認知症患者よりも客観的に自分の状態を観察する様子がみてとれました。
自分の考えたことを日記に書く。感じたことを話すために講演会を開く。自分の病状を伝えることで認知症医療に貢献するそんな生活のなかで、彼はこう語っています。
「いざ認知症になってみると、生活の中で『確かさ』という観念がほのかに薄れていくのを感じる。このまま僕はなにもできなくなっていくのだろうか?僕の生きがいはなんだろうか?」
残酷な現実です。最前線で多くの認知症患者の治療にあたってきた人が、歩行補助の杖を持っていくことを忘れる。毎日飲む薬の存在を忘れる。娘の名前さえ忘れかける。
医療への貢献を積み上げていくことが彼の生きがいであったのなら、自分が何もできなくなっていくことに人並み以上の不安を感じることも当然と思います。
認知症になったその身で認知症医療の研究をすることが彼を支える生きがいになるその一方で、自らの衰えを痛感させる要因にもなる。
生涯を費やした医療という名の戦場に患者となった今でも居続けることは、彼の救いであると同時に、彼を苦しめるものでもあるようでした。
自分が定まらないことの不安は、程度の差はあれ現代を生きる誰もが経験し感じながら生きていることと思います。わたしたちにとってはその不安を認識することが、人生を進むエネルギーになることもあるでしょう。
しかし、そのような不安すらも、認知症を発症しているとあいまいにしか感じることができないようです。認知症患者にとっての『確かさ』の喪失というのは、その次元の話なのです。
当事者になってみないとわからないリアルな感覚がそこにはあります。
知れば知るほど、認知症とともに生きることの難しさが浮き彫りになりました。
彼はどのようにして不安な日々を過ごしているのか、次回は家族との関係性に焦点を当てながら話していこうと思います。